記者席



平和の闘士野中広務氏!
2018年1月28日


◆…92歳で亡くなった野中広務氏を、初めて見たのは、30歳前後で若輩記者時代の1980(昭和55)年頃、当時副知事だった野中氏が、確か宇治市の塔の島で行われた出初式だった。聞いた挨拶に心打たれた。誰もが、ありきたりの言葉を並べるだけだったが、野中氏は違った。その時その状況、そこに居る人の心情を酌んだ、一言一言が胸に入り込んでくる語りに「スゴイ人がいるもんだ」と驚いた。
◆…その副知事時代、「太陽が丘」(府立山城総合運動公園)建設に奔走した。水害発生を危惧する反対運動にも、正面から向き合い説得に当たった。我が社にも足しげく通い、府民スポーツの振興だけでなく、時代を担う子供たちにとって大きな夢と感動を与える場となると力説、初代社長故中村良一、2代社長故中村啓次郎と意気投合している姿は今も脳裏を離れない。地域で、誰が何を考え、どう行動しているのか、つぶさに知る情報源としてローカル紙を大事にした。
◆…1983(昭和58)年8月、前尾繁三郎、谷垣専一の両代議士死去に伴う衆院補欠選挙で谷垣禎一代議士(自民)と揃って初当選して以来、96(平成8)年10月執行の衆院選挙まで中選挙区時代は、京都市内(伏見区以外)を除く京都府下全域を選挙区(京都2区)とし、宇治市、城陽市など府南部で独特の存在感を発揮していたし、この地域で今もって野中氏を慕う人は多い。89(平成元)年頃、「新名神」が、宇治田原町から城陽市の中央部を通るコースに建設されることを、真っ先に伝えたのは野中氏だった。
◆…だが城陽市民の中には、複雑な思いを抱く人が多い。人口が4万3千人から8万6千人にほぼ2倍に急増した77(昭和52)年9月〜97(平成9)年9月まで20年間、市政を担い今日の城陽市を築き上げた今道仙次元市長を国政に誘い、断られたことを機に対抗馬を立て、共産党と組んで倒した。それで市政が良くなったのならともかく、大西忠市政(97年9月〜01年9月)の4年間は、当初予算の否決や公私混同など混乱が続いた。後日、野中氏から、この市政転換が失敗だったとの思いを直接聞いた。同時に、今道氏について「城陽を深く愛し、政策を先取りする、優れた市長だった」と敬愛の念を込めて話した。
◆…その話を聞いたのは、14(平成26)年6月のインタビューだった。今道氏を慕う有志と共に「今道伝説」を刊行(15年3月)するにあたり、1時間たっぷり話をする機会があった。当時、特定秘密保護法の強行から靖国神社参拝、武器輸出解禁、中国挑発発言、集団的自衛権の行使等々、ひたすら「平成の富国強兵」をめざす安倍総理の行動の原点がどこにあるのか、マスコミで平和発信を強めていた野中氏にたずねた。その言葉力に圧倒され、私は嗚咽がしばらく止まらなかった。以下、発言内容をそのままお伝えする。
◆…「私は終戦までの6ヵ月間、軍人として戦争に参加した。米軍が上陸を予定していた高知の海岸線に居た。あと1ヵ月間終戦が遅れていれば、おそらく生きていなかった。近くに海軍航空隊の基地があり、私より若い特攻隊の青年が次々に『明日出撃します』と別れのあいさつにやって来た。戦争は、日本国民だけでなく、中国や韓国の方々にも大きな犠牲をもたらした。我々はその傷あとを背負っている。私達の世代は、死ぬまで戦争に反対し、亡くなった人達の冥福を祈りたい。中国や韓国の人達とは、仲良く交流すべきにもかかわらず、今の政治状況はとても許容できない。安倍内閣がこのまま突き進むなら、亡くなった多くの人のことを思うと、残り少ない命を、官邸の前で抗議の切腹でもと思うぐらい腹が立っている。彼は、戦後レジームの脱却などと言っているが、高邁な考えなどない。東京裁判でA級戦犯になった祖父、岸信介の名誉を回復するため、東京裁判を無きものにしようと考えているだけ」。
◆…聞き終わり、「平和について、狭い限定された地域で活動するローカル新聞として何ができるのか、今まで無力感を感じてきた」と個人的な悩みを漏らすと、「自身の立場で書き続けることが大事」と言われた。野中氏の言葉を肝に銘じながら、残りわずかな人生を生きていきたい。【藤本博】


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