「原爆の世紀を生きて―爆心地からの出発―」を出版した米澤鐡志さん

「原爆の世紀を生きて」出版

母と2人で疎開先から広島市内の実家へ荷物を取りに向かう途中、路面電車の中で被爆した米澤鐡志さん(83)=宇治市宇治野神=が、自身の生き方を決めたヒロシマでの被爆体験や、情熱を傾けた戦後の反戦・平和運動、フクシマ「3・11」以後の核なき世界を目指した老後の活動を振り返り、「原爆の世紀を生きて―爆心地(グランド・ゼロ)からの出発―」をアジェンダ・プロジェクト(京都市南区東九条)から出版した。発売は星雲社、定価は1400円+税。

米澤さんは1945年8月6日、爆心から750㍍、すし詰めの路面電車内で被爆した。母は疎開先に戻った9月1日に死亡。1歳の妹は母乳が原因で10月に死んだ。
電車内被爆者で生き残った人が85年に集い、「奇跡の7人」と呼ばれた。現在、生き残っているのは米澤さんひとり。電車は当時珍しかった鋼鉄製。通りに立つ市内一高い百貨店が原爆の閃光の遮蔽(しゃへい)物となって熱線から電車を守り、まだ背の低かった米澤さんは、すし詰めの車両のど真ん中にいた。
自身の被爆体験は「ぼくは満員電車で原爆を浴びた―11歳の少年が生きぬいたヒロシマ―」(小学館、13年発行)として出版している。
祖父と父は医師という家庭の長男で生まれた。父の米澤進は若くして無産者医療運動に関わり、戦後も一貫して社会的に恵まれない人のためにその情熱を注ぎ、広島市議会で共産党の議員として5期20年務め、2006年に百歳で死去。ロシア革命で誕生したソ連(91年崩壊)の指導者スターリンが「鉄の人」と呼ばれていたのにあやかり、長男を「鐡志」と命名した筋金入りの共産党員だったという。
被爆から奇跡的に生還した米澤さんは戦後の広島で中学生の時から政治活動に関わり、労働争議などにも関わる中、高校を中退。その後、一念発起して大検を受けて立命館大の二部法学部に入学。60年安保闘争などに大学生として携わり、学生結婚の後、無産者医療運動の流れをくむ病院に勤務した。
本書は被爆体験から3・11以後まで8章で構成。報告「医療汚職の伏魔殿、厚生省」や折々に綴ったコラムなどを集大成した。
「核と人類は共存できない」との持論を精力的に説く米澤さんは、関西電力大飯原発の再稼働に対する抵抗運動をきっかけに、80歳を超えた今も、原発再稼働に抗議する「キンカン行動」にも参加しており、「原爆の世紀を生きた者のメッセージとして、本書を通して次代の日本を担う若い世代が何らかの教訓を学び取ってほしい」と話している。【岡本幸一】