建立の背景示す文書を発見/宇治川ライン「往来安全」碑
往来安全碑を訪れた茨木さん(右)と長野さん(13日、左奥に見えるのが直路碑)

府道宇治木屋線(宇治川ライン)の宵待橋から宇治田原方面へ50㍍進んだ道路わきに「直路碑」「往来安全碑」の2つの石碑が立っている。このうち1895(明治28)年に建立された「往来安全碑」については詳細が分かっていなかった。宇治田原の歴史を語る会の茨木輝樹会長(77)が調査を進めるうち、町内の某旧家から古文書を発見。碑建立に至る背景が明らかとなった。
往来安全碑は、高さ180㌢、幅118㌢、厚さ26㌢の自然石でできており、裏に「明治二十八年四月仲旬・伏見石熊」の文字がある。茨木さんによると、町内に11ある同様な石碑のうち、この碑だけ資料がなく、詳細不明のままだったという。

発見された古文書の一部(「天石碑」「明治廿八年四月」とある)

今年3月頃、茨木さんが関連のありそうな家を探していたところ、町内の某旧家から古文書を発見。「天石碑」「明治廿八年四月」の文字から、往来安全碑の経緯を書いたものと判明。内容からみて、碑の除幕式の際に読み上げられたものと思われる。
文書には▽江戸時代の宝永・正徳年間に、郷ノ口の豪農「今西又衛門」が私財で宇治道を開き牛馬の往来を可能にした▽1870(明治3)年の台風で宇治道が不通となり、今西家と奥田家11代目「奥田治作」の両氏が修復工事を担当した▽1895(明治28)年、今西家を中心に「供養会」を設立し古人の恩に応えようと碑の建立を決めた…とある。
碑の裏側の文字「伏見石熊」は、1884(明治17)年の創業以来130余年、京都市伏見区で営業を続ける「石熊石材店」であることも分かった。同店では、石屋の「石」と、創業者・西田熊太郎の「熊」の字をとった「石熊」の屋号を代々使っていたという。
茨木さんの誘いで13日に碑を訪れた同店取締役の長野加代さん(48)は、プロの視点から「江戸時代にできた隣の直路碑が柔らかい砂岩なのに対し、安全碑は自然石で硬く、彫るのが大変だっただろう。すごい技術だと思う」と話し、驚きを見せた。茨木さんも興奮した様子で「宇治田原の歴史に新しい1ページができた」と喜んだ。