売茶翁、永谷宗円 一期一会 思い出刻んだお盆か/宇治田原

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売茶翁

煎茶「中興の祖」である売茶翁が67歳、「日本緑茶の祖」と呼ばれる永谷宗円が61歳の時、2人は宇治田原の湯屋谷で、茶事を心行くまで談じ合った…とされる。その時、売茶翁は「煎茶・日日・起・松風」と宗円家に書き残したという。寛保2(1742)年の夏のことである。その4年前、宗円は新しい煎茶製法をあみ出し、江戸へと売り込みの旅に出る。その途中、果たした宿願が「富士登山」。後年…この2つの思い出が「お盆」の裏に刻まれた。宗円生家と同じ茅葺き屋根のお茶屋さんに今、この盆は受け継がれている。

永谷宗円

永谷宗円が使っていた日常品や遺品的なものは、ほとんど残っていないと言われるが、ここ宇治田原町南亥子の丸伍製茶には、宗円ゆかりの木製盆がある。
茅葺き屋根の下、仏間に据えられた盆の裏には「煎茶日日起松風」の文字と年号、売茶翁の還俗後の名前「髙遊外」が刻まれ、その横には「富士登山」の文字、「御殿場」という地名と「永谷宗円」の名が記されている。
代表取締役の上野雅央さん(61)は「うちに代々あるもの」と、伝え聞いているが、「いつからあるのか」「どこからきたのか」は分からないという。

永谷宗円ゆかりの木製お盆

宇治田原町史などによると、ここに刻まれた富士登山は、今から282年前のことである。
宗円は15年の歳月を費やした苦心の末、茶の芽を蒸して手揉みとし、ホイロで乾燥させる新しい煎茶製法を発明した。
これによって、それまで赤黒かった茶の色が、緑色の美しいものとなり、当時の人々を驚かせた。
しかし、抹茶がお茶とされていた当時の京都の町では商品化することができず、58歳という年齢を気にすることもなく、新煎茶5斤(約3㌔)を背中にしょって、江戸への売り込みの旅に立った。
その途中、幼き頃から強く願っていた富士登山を敢行する。
御殿場から歩きに歩き、頂上を極めて富士の山神に新煎茶を供えると、この製茶方法が天下流布し、国利民福の一助となることを祈り、山から降りて江戸へと急いだ。
そして出会った日本橋の茶商・山本嘉兵衛に賞賛され、屋号である「山本山」と売買特約を結ぶと、金20両を得て、湯屋谷へと帰った。
その後、全国各地に新製法が伝えられ、宇治茶盛業につながるのであるが、その当時、京の鴨川畔で通仙亭(茶を飲む店)を開き、禅の道と世俗の融解した話を客にしながら煎茶を出していたのが、黄檗宗の僧でもあった売茶翁。
煎茶に精神性をもたらし、その普及に対する多大なる功績から、中興の祖とも称される売茶だが、その煎茶の世界に緑色の新風を吹き込んだ永谷宗円に強い興味を抱いていた。
その思いが67歳という老身を動かし、宇治田原の湯屋谷に向かう。
永谷伊八家旧記によると、まさに仙境という趣きの永谷宗円家の前に立つ売茶翁。戸が開くと、両雄が対面。心行くまでの語り合いが始まったという。
時はあっという間に過ぎ、一泊した売茶翁は宗円家に一編の文章を書き残した。
そこには「物静にして最も仙境に似たり、茶に適ふ霊地なりと感ずるに、予を一室に留めて自園の新茶を煎じ出さる。初めて試みるに美艶清香の極品にして、何ぞ天下に比するものあらんや。未だ一椀を挙げざるに彼の大福の名葉なることを知る」などと記されていたという。
茶道に由来することわざに一期一会がある。
一生に一度の出会いであると心得て亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味するが、まさに一期一会の売茶翁と永谷宗円。その間に、このお盆があったのだろうか。

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