防空壕の5m先に焼夷弾/宇治市「戦争体験アーカイブ」

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宇治市平和都市推進協議会(会長=松村淳子市長)が製作した戦争体験者の体験談、被爆者や遺族らの生の声をDVD等に記録・保存を行う「戦争体験アーカイブ」の第5巻(約19分)が完成し、市ホームページ『ちはや茶んねる』などで公開した。
戦争の悲惨さを風化させないという強い思いのもと、作製しているもの。今回は戦争が始まった1941年12月8日、兵庫県姫路市で幼稚園に通っていた山本明子さん(85)=宇治市宇治=の話を収録した。
開戦を告げるラジオ放送に「父と母が大変だ、という様子で暗い目をして、目を見合わせていたことをよく覚えている。その夜は『戦争万歳』という、ちょうちん行列の声を聞きながら眠った」と振り返った。
幼稚園卒園児には先生から「将来の夢は、男の子は兵隊さんに、女の子は傷ついた兵士を介抱する看護師になりたい、と言いなさい」と諭されたが、涙を流す先生を見て「かわいい教え子を戦争に送り出す、という悲しみの涙だったのではないか」と回顧した。
戦争が激化するにつれて、町中には『ほしがりません勝つまでは』というポスターが貼り出され、食料品や衣料品などが軍隊に送られたことを紹介。物がなくなり、貨幣価値が下落する中、「お米を母の着物で手に入れていたが、次第に禁止され、こっそり行っていた」と話した。
空襲では「白い服を着ていた中学生が機銃掃射で狙われ、慌てて脱いだら、その服に多くの弾が当たった」と証言。自身の家でも「防空壕に隠れていたら5㍍先の梅の木に焼夷弾が落ち、家の一部が焼けた」と恐怖を語った。
最後に「戦争は二度としてはいけない。勝っても負けても悲劇がいっぱい生まれる。絶対に戦争のない日本、世界にしてもらいたい」と願った。

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