「伊賀越えの道」に飛龍紅梅/宇治田原・遍照院

各地で桜(ソメイヨシノ)が咲き始めたが、ここ宇治田原町の山里では「徳川家康の逃避行」を見守ったであろう老梅が、今年も見事な花を付けている。
奥山田岳谷の高野山真言宗「遍照院」に枝を張るのは、樹齢500年とも言われる京都府名木百選の一つ「八重の紅梅」で、雲の上を優雅に飛び回る龍に似ていることから「飛龍紅梅」と呼ばれる。
開基は元亀元年(1570)。その時すでに成木であったという、この紅梅は家康の鼓動を感じ取ったのであろうか。
今から440年以上前の天正10年(1582)6月2日早朝、明智光秀に織田信長が討たれる。その時、徳川家康は信長の招きで泉州堺におり、午後2時ごろに一報を受けた。
一旦は信長の後を追い、死ぬ覚悟で知恩院へ向かおうとした家康だったが、家臣に止められ、「どうする」と思案した末、急きょ本国三河の岡崎城へ帰還することにした。
随行者わずか34人、明智方の襲撃におびえる一行は、何よりも人目を避けることを条件にルートを探索。これが近年、脚光を浴びている「神君伊賀越え」である。
今の枚方市から京田辺市に入り、山城大橋あたりで「草内の渡し」を利用して木津川を越える。
道中、遅れた家臣が京田辺の飯岡あたりで追っ手に襲われ、命を落としたとも伝わるが、この一行に助け船を出したのが当時、信長の命で交通の要所・宇治田原の郷之口に山口城を構えていた山口甚介秀康。
本能寺の変から一夜明けた午前10時ごろ、城で食事をもてなし、家康らは立川から湯屋谷を経て奥山田に向かい、遍照院へと入った。
そこから裏白峠を越えて信楽の小川城で警護兵と合流し、翌日には無事、三河へと帰ることができた。
この行程で、ひとときの休憩をとったとされる遍照院で、見事な梅に目を奪われた家康は、その傍らにある石に、しばし腰を据え、うねるような飛龍の姿を眺めて心を静めた…と伝わる。
いま、そこには「家康公・腰かけの石」なる銘板が掲げられ、杉山浩義住職は「ご自由に腰かけてくださいね」と話す。
NHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場するかもしれない…この石に座って紅梅を眺めると、山里の爽やかな風が頬をなでる。【写真】
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国道307号で滋賀県方面に向かい、奥山田バイパスの大杉トンネルを抜けると、約1・5㌔先の右側・山手に遍照院は建つ。参道前の奥山田連絡道を使うと遍照院の茶屋村と、正寿院の川上を行き来することができる。