家康「伊賀越え」足跡に迫る/宇治市民大学
講演で力を込めた茨木さん

宇治市民大学の宇治学コース「南山城、様々な統治の形」の講座で、宇治田原の歴史を語る会代表の茨木輝樹さんが20日、NHK大河ドラマでも話題の、家康による「伊賀越えの道」の足跡に迫った。

「家康伊賀越えの道」(お茶の京都DMO制作)より

伊賀越えは、当時41歳の家康にとって、三河の一向一揆・三方ケ原の戦いと並ぶ「三大危機」の一つだったとされている。1582(天正10)年6月2日、信長の命で上方遊覧していた家康が、南蛮貿易で栄えていた堺から京都へ戻る途中、本能寺の変で信長が自害したとの知らせが入る。
家康を討ち取ろうと、東海道には明智光秀の軍が睨みをきかせていた。思案の末、家康一行は三河への帰還を計画。山城~近江の甲賀・伊賀を通って伊勢へと抜ける道を選んだ。足掛け3日間、全200㌔。同伴者はわずか34人。逃避行に成功した要因は「銭と顔」にあった、と茨木さんは言う。
豪商・茶屋四郎次郎清延は、家康の家来・本多忠勝の顔なじみで、忠勝に信長の凶報を伝えた。一方で、莫大な財力により、山賊に金を渡して家康を守ったとされる。なお、放送されたドラマでは、家康に金平糖を献上したとして、中村勘九郎が演じていた役どころだ。
信長の家臣・長谷川秀一は、周辺の地理に詳しく、伊賀越えの案内役を買って出たのに加え、援軍を求める手紙を書き、信長の命で建てられた山口城へと導いた。現在の郷の口に、一行が昼食休憩したという城跡があり、宇治田原エリアでは最初の「家康ゆかりの地」になっている。個人名(山口氏)が入った城は、全国的に珍しいという。
講演では「城主は家康様がご出発されるまで大手門を厳重に固めよとのことでその任についていた…6月3日宇治田原へ入られた家康様は午前10時に御前を召し上がられ12時信楽に向かって出立された」とする史料の説明があった。

永谷宗円生家から奥の坂道を越えた大福谷付近。伊賀越えの看板がある

宇治田原茶発祥の地・大福谷を越え、昔ながらの古道を進んでいくと、東海道・信楽道へ向かう分岐点に位置する長尾峠が現れる。伊賀越えツアーで実際に現地を訪れた茨木さんは「もし道に迷い、間違って逆方向に進んでいたら…」と話し、決死の覚悟で進む一行の苦難を思いやった。
茨木さんは、今回初公開のビッグニュースとして、宇治田原の旧家に残されていた記録「寛政重修諸家譜」を紹介した。内容は、家康の警護に当たった服部禎信に対し、鎌倉~室町時代の刀工・来国次による短刀が褒美として与えられた…というもの。
この短刀が巡り巡って、宇治田原町の某所に埋められているらしい。茨木さんは「実は、目印と思しき大きな木がある。地元には古文書がほとんど残っていない中、話が本当で、掘って見つかったら大変なこと」と興奮気味に話していた。
宇治田原を行くルートは「家康腰掛けの石」が残る遍照院で締めくくり、信楽道へと続く。同町産業観光課では、旧暦6月3日(今年は7月20日)近くに毎年イベントを行っており、7月15日(土)には山口城~宗円交遊庵、同22日(土)には遍照院までの道を歩いてめぐる予定。

■伊賀越えマップ 増刷配布中
京都山城地域振興社(お茶の京都DMO)が制作した「家康伊賀越えの道」ガイドマップが、観光案内所などで無料配布されている。
2020年に発行したものを一部改訂し、今回5000部増刷した。伝承が残る京田辺市、井手町、城陽市、宇治田原町、精華町のブロックごとに見どころを紹介。徒歩による所要時間、消費カロリー、高低差などの情報も載せている。
ホームページでも公開中。問い合わせはお茶の京都DMO℡0774‐25‐3239へ。