=弟子入り志願エピソード2・高山植物編=
【中川宗孝(環境生物研究会・城陽環境パートナーシップ会議)】
ナチュラリストのルーツは「木津川最後の川漁師逝く」と報じられた父・中川朝清との少年期の木津川詣で培った原体験にあり、学生時代に感銘を受けた「我ら動物みな兄弟」の著者・畑正憲先生に心酔し、夢が叶って「ムツゴロウ動物王国」の住人として師の下で学んだ「ムツゴロウイズム」が現在に至る活動に活かされています。
それまで漠然としていた自然や動物への想いが、生涯をかけて取り組む自身の命題を得たことで自然保護運動が生活の一部となりました。大学2回生で立ち上げたサークル活動は身近な美化運動や自然探査から、縦貫道路建設計画が浮上した北海道大雪山系や沖縄・西表島など、全国各地の自然保護運動に参加してネットワークを築いてきました。こうした活動成果と、ムツゴロウ先生に認めてもらいたい一心で鉄道マニアの筆者が打ち立てた「日本最長鉄道ひと筆一枚切符」の鈍行列車の旅の記録を携え、弟子をとらないことで知られるムツゴロウ先生に弟子入り志願に押しかけた経緯がありました。
4月6日の訃報から今日まで、これらムツゴロウ先生の思い出に浸りながら日々の追善供養を続けています。今にして、動物王国のパスポートを得られたエピソードのひとつ『君に10億円を与えると何に使う?』に、高山植物保護への熱い想いを語って№2との評価を得られたのも、高校・大学時代から続くナチュラリストライフへのドラマがあり、ここでも忘れてはならない恩師の存在があることをあらためて知ることとなりました。
天から見守って頂いている畑正憲先生に、生涯の宝であるムツゴロウ動物王国での思い出を振り返り、高山植物エピソードの裏話に添えての亡き恩師の先生方の紹介で供養とするものです。そんな半世紀を経た幾多の記録の掘り起こしは、古希を迎えたロートルナチュラリストへ遠き日の自身からのエールです。多分に自己的でコアな思い出話にお付き合い下さい。
◎動物王国の思い出と高山植物エピソード
動物王国での思い出は尽きませんが、公人のムツゴロウ先生や著名な方々とのエピソードなどは、ご迷惑をおかけしないよう極力自分本位の表現に留め誤解のない内容を心掛けています。そんな中、小学生の時に講堂で上映され感動した動物映画「野生のエルザ」の原作者、ジョイ・アダムソンさんがケニアから来られた時、ムツゴロウ先生と馬で途中まで出迎えに行き、エスコートした映像が放映されて門下生の証となる記録が残ったと感無量でした。視聴率30%のお化け番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」が始まる数年も前、「雑居家族」の草創期の頃のことです。
そしてもうひとつ、筆者が札幌大学ロシア語学科を選んだ背景には、高校時代に読んだ五木寛之著「青年は荒野をめざす」と「さらばモスクワ愚連隊」の影響によるものでしたが、さすがにムツゴロウ先生の手前サインももらわずじまいの潔い決断は今も眼尻が下がる思い出です。やはり憧れの漫画家・園山俊二さんや動物王国内に住居を構えた写真家の加納典明さんなど、ムツゴロウ先生の周りには輝きを放つ人たちが大勢いて刺激的な日々を送れたことは人生勉強になったものと振り返っています。
やがて、一番の懸案となっていた恋人の存在も、ムツゴロウ先生に背中を押されて結婚を決意し、二人して小雪舞う動物王国を後に故郷・城陽に戻ったのは23歳の晩秋のことでした。その後、動物王国で一緒だった石川さんとヒロ子ちゃん、金田さんと純子ちゃんのカップルが結婚し、ムツゴロウ先生の元でキタギツネやアザラシの保護飼育に取り組む姿は微笑ましく、一縷の後悔がよぎるもローカルナチュラリストとして郷土の自然保護への貢献で、朗報発信の恩返し報告ができることを目標としてきました。
やはり大恩あるムツゴロウ先生への想いが天に通じ、幸運な発見の数々にも恵まれて胸を張れる成果の報告で現在に至る門下生を拝しています。鳥類や両生・爬虫類の研究者としての科学番組への出演や、自然保護功労者としての環境大臣表彰などで、ムツゴロウイズムの実践者として認めていただけたものと自負しています。そんな恵まれた環境にあったナチュラリストのプロローグも聞いて下さい。
洛南高校時代に水泳で挫折した筆者に、理科部顧問・伊藤克己先生の強引な勧誘が始まりでした。研修登山のポーター・荷物持ちで参加した石川県の白山で高山植物に魅了され、受験生の夏休みには高野山合宿をばっくれて周遊券とヒッチハイクで北海道へ20日間の花巡りの旅に出ました。当時、卒業論文も課せられていて、「高山植物の水平分布と垂直分布」と題し、白山での2年間の調査を元に北海道各地での生息を記録することで様々なことを学ぶ機会となりました。
大雪山系黒岳では、国立公園のレンジャーの人から高山植物の盗掘・販売の問題や、マナーの悪い登山客のゴミが野生動物の生態に悪影響を及ぼしていると聞いて心を痛めました。花に詳しそうな人に声をかけての情報収集では、日程的に周れない日高山脈や本州の日本アルプスなどの状況も伺うことができました。何より、わざわざ30km?もの遠回りで浜頓別の原生花園へ送ってくれた人や、見ず知らずの筆者を自宅に招いて泊める人がそれも計三人に出会うに至っては、北海道への想いも格別で大学進学の候補地に登録です。
そんな経緯で作成した自信作の卒業論文に、担当官の柴垣弘厳先生は『ここまでしゃんでも…。』に続いて『浪人するなヨ。』と高評価をいただき報われました。同じく理科部顧問の横山繁久先生は、ラジオ番組で筆者の卒業論文を『受験のサブノートの色合いが濃い中、本格的な論文』とご紹介いただきました。その代償もてきめん、大学受験は第ン志望にかろうじて受かりました。
こうして進学した札幌大学で、思わぬ展開の運命的な出会いがありました。一般教養の「生物学」受講の初日、三上日出夫教授がドウランから次々と草花を出され、『どれか分かる花はあるかい?』に、演壇まで駆け寄って『ナニワズ・エンレイソウ・ユキザサ・ホウチャクソウ・エゾエンゴサク…』女子大生の視線を感じながら悦に入る筆者に『キミは何者だ? 後で研究室に来なさい。』と願ってもない展開で、翌日には隣接する演習林の散策に誘っていただき植物学者のアドバイザーを得る幸運に恵まれました。
天狗になっていた筆者にもまだまだ知らない草花がたくさんあり、牧野富太郎の植物図鑑を与えられて演習林の植物観察を始めました。早速、サルメンエビネやシュンランといった希少植物を見つけてほめられたことが、後々のフィールド探査のモチベーションとなって大きな成果につながっています。また、当時でも大変珍しかったニホンザリガニを発見し、三上教授が飼育観察の後に貴重な資料標本となったとお聞きしました。
今や植物とは縁遠いナチュラリストも、オオタカの保護問題が勃発した1990年の関西学研都市で、食虫植物のムジナモとサギソウ・トキソウの群生地をみつけ龍谷大学の土屋和三先生に確認いただきました。毎日新聞の当時は珍しかったカラー版で、夕刊一面トップ記事で報じられた絶滅寸前種の花たちの思い出も特筆ものです。
かつて頭の名が高山植物でいっぱいだった頃、ここぞとばかりに語った『10億20億円ではまだまだ足らないけど、野草の盗掘がはなはだしくウスユキソウなどが絶滅の危機にある礼文島の一角を買い占めて、サンクチャリー・聖域として次代に残したい!』との想いが、偉大な師の心に届いたことを記す機会となりました。ムツゴロウ先生を偲ぶ追悼の日々の中で、縁ある先生方への感謝の念がよみがえり、あらためてナチュラリストの本分とするフィールドからの朗報発信で亡き先生方への供養を誓う昨今です。
高校時代からアルバイト代をつぎ込み、大学時代には32000円の大枚をはたいた大図鑑をひもとくや、これら高山植物が人生の師の下に導いてくれたことにつくづく感謝し、昔の恋人たちに会いに行ってきました。(写真①②③④) 植物園の高山植物展示は極限られ、開花季節もあるのですが、ミュージアム巡りをライフワークにするナチュラリストのアンテナは感度良好です。こうして「咲くやこの花館」で、ゆかりのレブンウスユキソウにも出会えてムツゴロウ先生への供養も果たせました。(写真⑤⑥)
古希を迎えた自分史の草稿ともなった高山植物エピソード、ムツゴロウ先生のご霊前への報告を兼ねて、「花の浮島・礼文島」に渡って、日本のエーデルワイス・ウスユキソウやクロユリ、ウルップソウたちとあらためて偉大な師を偲ぶ日が来ることを願っています。(写真⑦⑧) 合掌。