宇治市木幡東中の許波多神社(黒川宰宮司)は、数々の歴史資料をもとに、由緒やルーツなどを解説した新版リーフレットをこのほど発行した。A4版カラー・6ページ。社務所で無料配布している。
今年1月に開かれた地元の公民館講座「こはた大発見」で「なぜ許波多(こはた)神社が二社あるのか」のテーマで講演した龍谷大学名誉教授の小寺慶昭さんが、リーフレット作成に当たり、これまでにない新たな視点から寄稿した。
許乃国(コのくに、宇治)の波多(ハタ、横)にあることから名付けられた同社は、飛鳥~平安時代に起源がある。927年にまとめられた『延喜式神名帳』に記載がある式内社で、その中でも最高級に位置する数少ない「名神(みょうじん)大社」でもあった。
小寺さんは、多くの神社が南向きに建てられているのに対し、同社が東を背にして西向きになっている理由を「天子は南面す…という大陸の考え方が入ってくる前の話だからだと思う。古代の昔には、東西南北に関係なく、山を神体とみなす思想があった」と説明する。
小寺さんによると、847年『東大寺南院文書』の中に、現在の木幡南山付近(今の本社から約700㍍東南)に旧社が鎮座していたとみられる記述があるという。
神殿の背後には高峰山(旧称・木幡山)がそびえていることから、同社は「古代からの信仰形態を受け継いでいる古社」であり「12世紀ごろに現在地へ遷座」し、当時の建て方を踏襲した…と小寺さんは推察する。
このほか、天智天皇が崩御する直前の671年、弟の大海人皇子(後の天武天皇)が大津宮を辞して吉野山に向かう途中、同社で戦勝祈願をしたといわれる「柳の鞭伝承」など、本社のルーツを知るための歴史的なエピソードがいくつも収録されている。
黒川宮司は「宇治市名木百選のうち4本が当社にあるなど、観光スポットの一つになっているが、小寺さんから話を伺う中で、宇治全体の歴史の一角を担っている気持ちが強くなった」「大昔の人物が身近に感じられると思う。歴史を伝えることで、神社を守っていく意識も芽生えていくことを願う」と話していた。